SSブログ

達観と諦観 [ひとりごと]

何方も好きな言葉ではありますが、前者は割と良いイメージがあるのに対して、後者には「諦める」という文字があるせいか、後ろ向きなイメージでとらえられることが結構あるようです。

でも、「あきらめる」という言葉は仏教用語で、かつては
「あきらかに・みる」という意味合いだったようです。それが次第に「ギブアップ」という感じの「断念」の意味でのあきらめる、というイメージになったため、後ろ向きな印象になってしまったと思われます。

ところが、「諦観」というのは実は確かにあきらめるのですが、物事の本質をきちんと見極めたうえであきらめるという意味なので実は前向きな諦め方なのです。

今場所にその進退を賭けて臨む横綱白鵬関ですが、ずっと逃げ腰だったイメージが最近はあります。
そのまま引退したら本当に「諦めた」という後ろ向きな印象しか残らないですが、
もしきちんと取り組みを終えたうえで、自らの限界を知り、諦めて引退するならそれは「諦観」ですので余計に横綱としての品格等が求められるのだと思います。
少し前に引退した鶴竜関は、自らの引き際をきちんと考えて「諦観」して引退したと思います。

一方の「達観」はこんな境地になれたらなぁと常々思っていることですがこれもまた仏教用語のようで、「物事の本質を見極め、動じずにいること」ですから、「諦観」したうえで「達観」できたらもう、立派な精神力を持ち合わせているといえるでしょう。

この、「物事の本質を見極める」ということがどうも、人間は邪念や自我が強いと難しくなります。
じゃあ、本質って何なのかと思うとまた、これがなかなかわかるようでわかりません。

ネガティヴな発言をすると私などは仕事柄どうしても否定されがちなのですが(特に家族にはさんざん言われます)ネガティヴでも後ろ向きであるとは限らないのです。
それがこの「諦観」だと思います。
いくら考えても仕方のない事もあります。そういった場合、そこに本質はないと思って一旦諦めるというのは決して後ろ向きな解決策ではないと思います。

一旦停止することで新たに見えてくることもあるはずなので・・・。

どうしても無理だと思ったらその時「達観」して諦めることができるはずです。

似ているようでまるで違うニュアンスのこの二つの言葉ですが、年齢を重ねてくるとこういったことが問われる場面は結構あります。

何もしないでただ諦めてしまったら後悔しますが、できることをとりあえずやってみたうえで、諦めるなら、それは「あきらかに・みる」だと思います。

どうしてもあきらめなければならないことというのは誰にもあると思いますが、やりつくして諦めたなら後悔はないはずなので、できることがある限りは探し続けるべきなんだろうなと、私自身の経験上、切に思いました。

ネガティヴでも前向きなら、全然かまわないと思います。
やたらポジティヴでもすぐにあきらめてしまう人もいますし、反省や過去を振り返ることをしなければ、いくら前向きであっても進歩はないと思います。

いつか達観できるようにはなりたいものですが、そのためにはいくつものことを諦観していく必要があるのかもしれません。

nice!(2)  コメント(0) 

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。